我がふるさと油谷  H2005.05.30 アップ      次へ油谷芦別炭鉱の足跡2

下記資料は昭和39年油谷中学校を卒業した第17期生磯部晴夫氏が1988年
自費で「油谷小中学校同窓会記念誌」を出版、同窓生に無料配布したものから抜粋した。
ただし、その抜粋文も磯部晴夫氏が他から抜粋しているので、出典は不明。
磯部晴夫氏は現在(2005年4月)札幌市に在住している。
記念誌には、油谷小学校開校20周年記念誌(各界からの祝辞や教職員等の在任名簿)
また、同窓生の作文や、記憶にもとずいた油谷の地図が掲載されている。

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油谷芦別炭鉱の足跡1

「資料」
第五編 旭町油谷

第一章 自然環境
旭町油谷という名称が示しているように、旭町の中にある油谷であるから、
自然環境は旭町と同じである。辺渓幌内川の支流盤の沢の山ふところであって
炭鉱によってによって開け、炭鉱の閉山によってそのはなやかさを失ってしまった。
したがって、自然環境のほかに人為による炭鉱の歴史を重ねて見なければならない。
上芦別から空知川を渡って、トンネルをくぐり炭鉱に達した鉄道は二筋にわかれ、
一つは三菱鉱に、一つは油谷炭鉱に達していた。

第二章 油谷鉱業所とともに
油谷鉱業株式会社
昭和三二年六月一日、油谷鉱業株式会社は、十周年記念事業を行い、「十年の歩み」と
いう記念誌を発行した。これによると、会社の設立は大正十二年八月二十五日で、
大正十四年八月二十五日に設立された内外鉱業株式会社を、昭和十五年油谷鉱業所に合併
株式会社油谷鉱業所と改称した。その後下北硫黄鉱山、鳴滝銅山、他茂沢亜鉛鉱山、
池田鉄山を経営したが、戦時中の企業整備で休山していた。
戦後日本再建に石炭開発が急がれることとなったので、芦別鉱区の開発に着手し、
その後石炭を主とし、昭和二十三年油谷鉱業株式会社と改称したのである。
油谷では大正六年に久原鉱業が盤の沢において石炭の採掘に着手、昭和二年に
石炭業界の不振によって閉鉱した前歴があるが、昭和十八年に鉱区権は油谷鉱業が
取得していた。

炭鉱の建設
ランプ小屋
今日の油谷芦別炭鉱が生まれるまでのこの地は、樹木がうっそうとした自然林と
熊笹におおわれたところで、ただ一軒ポツンと河辺に今一郎の家があるだけであった。
しかし、それとて電気のある家ではなく夜はランプをともして生活し、開鉱準備をする
人々は、このバラックのランプ小屋で開鉱の構想を練ったのである。
積雪期のランプ小屋生活半年、この屋上の四本の煙突が語るよう…

芦別温泉
閉山によって油谷のまちはたちまちさびしくなった。
商店、小学校、郵便局、病院等一時になくなった。しかしその後、市では二ヶ所から
豊富にわき出す鉱泉が一分間に体育館下二百リットル、神社の奥四百リットルあることに
着眼して、市営芦別温泉の建設を行い、その経営を市振興公社に託し、昭和四十七年
十月二十二日にオープンした。これは好評を博し、目下引きつづき施設の拡充、付近環境の
整備を計画している。
なお、炭鉱から引き継いだ電気、水道も老朽化していたので市では温泉開発とともに
新施設に取りかえ面目を一新した。(観光編参照)

第六章
油谷大山祇神社

郷土が形成された場合、そこには必ず神社が建立される。農村の場合郷里の神社の分霊を
うけている場合が多いが油谷は鉱山であるから四国の大山祇神をうけて奉斉し、神社は
昭和二十三年六月一日に創祀した。祭りは六月十二日で伊藤清士、津幡留太郎が世話人と
して奉仕し、津幡留太郎は奉讃会長として活躍した。
昭和二十二〜三年のころ囚人を百五十人くらい使用したことがあったが、みんなで
あたたかくもてなし、囚人と民間人がなごやかに演芸会を開いたこともあった。
レクレーション活動は日常においても盛んに行われ、中でも野球、庭球、排球、弓道
剣道、囲碁等は特に優れ、それらの選手は各地の大会にもしばしば出場し優れた技を
発揮した。設備も体育館、テニスコート、バレーコート、弓道場などが良く整備され、
指導陣にも武道専門学校出身の土田義雄や日本棋院菅原四段などが活躍した。
このほか油谷地区の町内対抗スポーツや演劇コンクールも毎年行われたし、土筆俳句会
フォークダンスクラブ、社交ダンス愛好会、演芸グループの活動も盛んだった。

福利厚生事業
石炭の全盛をきわめた昭和二十四年ころから油谷会館、病院、保育園、浴場、住宅、
体育諸施設の建設が進められた。また昭和二十八年からは子弟の教育にも力を入れ、
高校生月額千五百円、大学生月額三千円が支給され、その対象となった多くの人たちは
いま社会で活躍している。

第五章 閉山と芦別温泉

閉山
ひところは八百人の従業員で活気をみせ、まちにあかるい灯をともした油谷鉱業も石炭市況の
悪化にまきこまれ、昭和三十三年十二月ついに整理会社として東京地裁の管理下におかれた。
以後、給料は遅配どころではなく完全にストップ状態となり、みんなで力を合わせて
がんばったが、再建のメドはつかず、昭和四十年三月三十一日ついにその歴史を閉じる
ことになった。昭和三十三年暮れに会社整理の適用をうけてから、山の人々の心は
さびしかったが、石炭鉱業合理化事業団による油谷芦別鉱区買い上げ額が一億五百七十二万
一千円と決まったのは四十年十一月だった。
油谷炭鉱の閉山時の従業員数は二百三十名であった。それを引きついで昭和四十年開鉱した
北海道興産北興芦別炭鉱も時代の流れには勝つことができなかった。
昭和四十二年八月三十日の調査では次のような商店があった。


商店名    開設年
油谷商事梶@昭和三十八年
成島商店  昭和三十八年
茂川古物店 昭和三十八年
沢田商店  昭和三十六年
武田商店  昭和三十九年
森商店   昭和二十五年
蛭川商店  昭和四十年
東井理髪店 昭和三十九年

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参考文献
資料提供  磯部晴夫氏 自費出版  芦別市立油谷小中学校記念誌より
資料提供   芦別市星の降る里百年記念館

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