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ああ芦別
− 三井鉱山時代 −
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1)三井鉱山入社

昭和23年の12月、私は三井の三池で鉱山の入社試験を受けた。
 明けて昭和24年1月1日の早朝、一通の電報が届く。「ミツイコウザン
カプシキカイシャニサイヨウス、ジンジブジムチョウ」。売り手市場の当時
のこと、私は特別嬉しいとも思わなかったが、ただ、これでようやく飢餓の
暮らしから脱出できるとの希望がもてた。
三学期になって、多分学校の教務課宛だったと思うが、会社から赴任通知
が届いた。「北海道石狩国空知郡芦別町字西芦別 三井鉱山芦別鉱業所」と
ある。悠長なもので私は三井の事業所が何処何処にあるかも知らなかった。
赴任通知で馴染みの文字は、独歩の「空知川の岸辺」にある「空知」の二文
字だけだった。早速学校の前の文具店に行って、そこの子供から日本地図帖
を借りて芦別の地を捜し出した。
昭和24年3月18日の昼前、佐賀から三日がかりの長旅のすえ、根雪の
残る芦別駅に下り立った。車外に出て初めて感じる北国の大気の肌触りを私
は忘れない。
人事課で赴仕手続きをして職員合宿に入居。爾後10年に及ぶ私の芦別時代
が始まる。

2)芦別の暮し

1,にしんの塩焼き
合宿祝日のタ飯はにしんの塩焼きだった。にしん、さけ、ます、たら、か
に、こんぶ。小学校の地理の時間に覚えた北海道の海産物の筆頭にある「に
しん」の現物を見るのは初めてであった。今時のものとは比べ物にならない
ほどの堂々たるもので、大皿から頭と尻尾がはみ出ていた。食い放題であっ
た。コックストープの上で濛々と煙を立てる塩焼きにしんが次々と運ばれて
くる。荒々しくも豊穣な北国の炭鉱の食卓であった。

2,アイヌ葱 (行者ニンニク)
五月になって坑内実習が始まる。繰り込み場までの往復は15分ほど人車
に乗る。この季節の人車はアイヌ葱の匂いでむせかえっている。車内は真っ
暗で坑夫たちが山菜採りの自慢話に興じている。あれから何十年か経って東
京の八百屋で値の張る行者ニンニクを何度も買っては食べた。しかしあの頃
のような強烈な葱の味がしない。

3,春は田園 (第六シンフォニ一)
雪解けの雨垂れが盛大に出窓のプリキ屋根をたたく日曜日には、ストープ
をがんがん焚きながらガラス窓を開け放ち、べートーベンの田園交響楽を聴
いた。春の気配に胸が躍動する。

4,夏山
大雪山系はたいてい登った。印象深いのは芦別岳、十勝岳、富良野岳、黒
岳など。中でも富良野岳のお花畑が忘れられない。当時の道路交通法などは
どうであったのか、登山口まで坑木運搬用の社有トラックに上乗りしていく
休日団体登山も盛んであった。

5,秋はショパン
短くて盛んな夏が過ぎれば秋がくる。北国の秋のなんとセンチメンタルな
ことよ。透き通るような秋の気にのって八百屋の店先からりんごが香る。こ
のころはショパンがよい。

6,山スキー
総務課に渡りを付けてもらって、営林署の造材小屋に自炊で連泊しての十
勝岳山スキーは楽しかった。雪明かりの樹林帯でムササビが飛交う。正月休
みのニセコアンヌプリが記憶に残る。その年は雪の来るのが遅く、例年であ
れば出来上がっているはずの、道中のスノープリッジがかかっていなくて、
まき道の連続。ヒュッテについたのは夜も遅くなっていた。その他日帰りス
キーでは旭川郊外のカムイコタン、富良野の北の蜂といったところ。またザ
ラメ雪となった丘陵地帯を団体で行く春スキ一行軍も懐かしい。丘の上では
石油缶いっぱいのとん汁を作った。

7,ライプコンサート
芦別在勤中、私はライプコンサートを聴きに2回札幌にでかけた。1回は
メニューインのヴァイオリン、2回目はゲルハルト・ヒュッシュの歌。メニ
ューインは確か戦後初めて来目した海外演奏家だったと記憶する。曲目はメ
ンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルト。ヒュッシュはいわずと知れた
、シューベルトの「冬の旅」。
当時の鉱山はまことにおおらかなものだった。私の札幌行き知った総務課
の肝煎りで、当時南分室と呼ばれていた会社のクラプに泊めてもらった。女
中さんがズボンの寝敷きをするから出せという。私はべルトを買う余裕がな
く、古ネクタイで代用していて気恥ずかしかったのも、今は懐かしい思い出
である。

8,仕事
1年間の新入社員実習を終え、私は経理課配属となった。勘定係、起業費
係、原価計算係と転属した。歴代の経理課長は、塚越、渋川、安保、石田の
各氏で、私は安保さんにとても目を掛けて頂いた。東大出の貴公子然とした
風貌と、顔に似会わぬ度胸のよさは得がたい人物と見た。安保さんに限らず、
山賀、鶴巻、荘子、池田の諸先輩には公私にわたってお世話になった。仕事
も酒も麻雀も。

9,結婚
昭和32年5月1日、縁あって、芦別本町の石川文子と結婚する。媒酌人
は佐賀中学先輩の副島さん (当時坑長代理)、私の親代わりは、やはり佐賀
中学先輩の松田さん (当時土建課長代理)で、芦別神社での神前結婚式であ
った。
先日家の中の書類整理で、私どもが初めて所帯をもった時の米の通脹がで
てきた、 「消費世帯用主要食糧購入通帳」と印刷され、住所は芦別市緑泉町
25番となっている。半世紀を隔てて用紙は黄変し折り切れしそうになって
いた。私は一瞬当時のままごとのような新婚生活を思い出した。それは全て
が新鮮であり、それだけに不安で心許無いものであった。しかし今日、私は
確信する。この緑泉町での生活は、互いの愛を信じ、手を取り合って未来に
向かってひた走った青春の軌跡であったことを。

3)芦別との別れ
昭和33年の11月、この年見事に咲いたグラジオラスの植え替えも済ま
せ、越冬野菜の干し大根が少ししんなりとなっていた頃、転籍が本決まりに
なって緑泉幸町の社宅をひき払うことになった。経理課員の大勢が引っ越し
荷造りの手伝いに来てくれた。
私ども夫婦は、芦別の友人知己に見送られて芦別を後にする。
 芦別の10年は、私の人生にとってそれ程長い時間ではない
が、その人生体験の濃密さにおいて、兵学校時代のそれに優るとも劣らない
ものであった。芦別が私の第二の故郷たる所以である。

さて、その後の芦別であるが、日本中の産炭地がそうであるように、石炭
から石油へのエネルギ一転換の流れには抗しがたく、縮小から閉山への歩み
を強いられる。私の芦別の10年間は石炭が命尽きんとして最後の花を咲か
せた時期だったのである。


<2014/01/02 10:56 糸山剛二>消しゴム
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