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あしべつ思い出散歩

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厳しい冬が去り、春から夏、夏から秋にかけ、芦別の通称三井地区(西芦別桂町附近より頼城旧選炭機附近に至る問)と云われた旧炭住社宅街の道々(三笠一芦別線)両側には開坑当初より、昭和35年中頃にかけ整備が行われ、環境作りの為に植込まれたシダレ柳、プラタナス、ポプラ、白樺、櫻、モミジ等の樹木、その枝が時季によって変る風にゆられ、緑、黄、紅葉の景観は素晴しいの一言で、住む人々炭坑マンと家族、及び他地方から訪ねてこられた人々にその美しさ、体感に強い印象を与えたものでした。

人々は樹木を眺めては、今をみつめ、過去を語りあい、未来に大きな夢をみ、心のやすらぎへと誘われたのでした。
冬になるとその光景は一変し、樹木の枝々は手入れがなされ、ある樹木は切り落とされた姿はまるで1本の坑木の様な状態になってしまう。

これは樹木による日影防止、風積雪による道路と交通障害等を防ぐ為に行われた。旧鉱業所の事務所向い側、西芦小学校々庭のかたわらに植込れたポプラは生長が早く巨木様になっていた。
このポプラ並木は絶景であり、なんとなく風格があった。
この樹木の下での散策、事務職員等が昼食後休憩時には、ある者は瞑想にふけり、またある者は語りあい各自鋭気を養った懐かしい場所でもあった。

職宅街に入るとこのあたりは新緑から初夏にかけ一番さわやかで、また山々を展望しつつ緑地のトンネルをくぐる様な心地はなんともいえなかった。
特に三井クラブに至る附近は、さえずる小鳥も多種多様で夏から秋にかけては絶好の散策地で樹木間を跳びまわる愛らしいエゾリスもみられた。
当時としてはオシャレナ木造西洋建築様式であったクラブ、周
辺は池が二つ(別館の分を含め)掘りおこされ、コイ、フナが放流され、建物の回りには一位の木、バラ、ツツジ等が植えられ、なだらかな丘陵から平坦な地帯に至る楕広大な敷地は緑濃い芝生が一面に植えられ感動される光景であった。
空にはヒバリが鳴き、美しい蝶が舞とんでいた。

その美しい環境は、芦別に勤務した者の誇りであり歴史でもあった。職住地には、白い花を咲かせるアカシヤ、コブシの木(モクレン科の落葉高木で早春、葉に先だって自色六弁の大輪の花が開き、実はにぎりこぶしに似ている。寒冷地帯に生殖する)、白樺、ドイッ松、銀杏、櫻、ライラック、ヒバ、プラタナス、モミジ等が道路の両側に植込まれ、住宅の庭々には、ツツジ、福寿草、小梅、水仙、チューリップ、サフラン、各種のバラ、黄色の花を咲かせた山吹き、シャクナゲ、スズラン等が咲き乱れ、新鮮なすがすがしい空気とともに住む人々の目と心を楽しませた。
附近の野原には白、むらさき、黄色の花を咲かせるノボリフジ、福寿草、タンポポ、スミレ、フキノトウ、カタクリ、その他多数の野草が咲き乱れ絶景の観があった。

クラブに至る職員合宿のま向い側に住んでおられた元鉱山取締役(当時事務長職)橋本(公)氏宅の庭には、トマト数拾本と、素人では難しいといわれるスイカ等を氏自ら挑戦し、丹精こめて見事立派な晶をつくられ、よく私を含めて部下職員、合宿のチョンガー(朝鮮語で独身の意)職員達が非礼遠慮なくビールを頂きながら、ご馳走になったものです。
元石炭社社長になられた結城氏は離山後、山元視察出張来山されると翌日早朝には、芦別の山添いの道々と職宅街の雰囲気を余程気にいられたのか、和服、下駄ばき姿で、何かを確かめる様満足されながら、健康を考えての散策は印象的に頭に浮かんできます。
また元鉱業所長職を勤められた加藤逸雄氏もよく散策をされ、道で会った部下職員とか家族の方々に愛情ある笑顔で会釈され、何かを語られていたお姿も今は懐しく思い出されます。

硬式野球場裏手芦別川々沿いにあった湿地帯、奥頼城青木沢の湿地帯には、4月下旬頃より6月初旬頃迄の間には、白い花で(白い花の様にみえるのはミプツエンホウ実は花ではなく仏炎芭とよばれるもので実はサトイモの仲間です。)涼味を満喫させてくれるミズバショウの群落は実に美しく素晴し一言につきた。

西芦別桂沢公園南側の比較的湿った地帯には、学術的に貴重な研究分野で有名だったオオバナのエンレインソウがある。(3枚の大きな葉の真中に白い花が一輪咲く姿が特徴的で清楚な感じがする。多年
草)尚この花は北海道大学の校章に採用され有名です。(母校北大の○B諸氏の自慢のシンボル)

鉱業所事務所玄関前庭と周囲の中庭には、関係下請会杜の厚意により寄進された多数の一位の木、モミジ、櫻、山吹き等が無秩序状態に植込まれ、従って木々は弱まっていた。
元石炭社取締役で当時事務長職であった井形仙一郎氏は「景観上もよくないし、弱々しく見える一位の木、枝のこみ合い、その他木々
の整備、飾り石の配列何とかならんか。」との話しが総務課よりあり、当時山ρ鉱員達で任意組職化されていた園芸部の方々に相談したところ快諾を得、硬式野球場裏側にあった川砂ダンプ6台分を運び整備補修、配列是正等のご苦労を頂いた。
その結果見違える様な景観になった。加筆しておかなければならないと思い記したわけです。

また今の時点で考えれば大変惜しまれることがあった。
昭和40年代中頃一時期西芦別駅前に、それから元一坑映画館のあった前庭に移植された巨樹水松一位について触れてみたい。
この巨樹水松一位は、もともと西芦別町桂澤公園内にあったもので、ある関係下請会社より寄進要請が会社に申し入れがあり、
早速林野庁へ特別許可申請をする前に、総務労務両課の依頼で来山された北大農学部教授の鑑定が行われた。

その結果樹齢ユ500年以上の樹で学術的にも大変珍しい立派なものと折り紙をつけられ、黄金坑郊外にある天然記念物水松一位に次ぐものとして代表的なものであった。
北海道の酷寒自然の地で風雲に耐えた高さ22m前後、幹回り約5m、荒れた樹皮に刻まれ、先端部が枯れて枝のみで、傷跡の中段から下方にある枝と葉は風が渡ると、ざわめく動きは壮観であった。
然しこの巨樹は、三井芦別労組建物の美観と保安上問題があると労組より非公式に打診がなされ止むなく撤去。
その後下請会社社長宅に移植されたが、現在は某市議の邸宅の庭に再々移植され、安住の地を得、道行く人々の目を楽しませながら生きています。
今考えてみると、若しそのままの姿で西芦別地区から移植撤去されていなければ、この地域を代表するシンボル、誇りであったことは
間違いなく、残念なことをしたと思います。

西芦別駅前には拾数軒の職員住宅があり、この地域に住んだ方々は、近くに商店街、配給所(西芦商事)があって日常生活上便利な地帯であった。
然し今は総べて取り壊わされ、平坦な地に整地されれています。
昔の面影は全くありません。
この地に住まわれた人々にとって忘れる事が出来ない思い出は、昭和39年10月20日芦別市としては戦後2番目といわれる商店街の大火災(被災世帯32,150人が焼け出された)。
当時は現在と違って消火設備が弱かった時代、怖く大変だったと思います。
西芦別町7丁目にあった職員住宅地域は、完全に跡形もなく掘り起され、現在は市営2階建鉄筋コンクリートのアパ
ートが建てられ、昔の面影はみられない。

第二坑開発とほぼ同期に建設された緑泉町緑町の2階建屋根がカマボコ様の文化住宅地は、大きな落葉様樹で取り囲まれ、住む人々によって多くの草花、花木が植え込まれ、庭が広い地帯であった。
また旧結核療養所の手前緑泉町7丁目奥附近に建てられた2階建洋風職員住宅地は、緑深い空気が新鮮な地帯であった。
両地帯とも今は跡形もなく、芝原が生い茂る誘致企業用工業団地に整備されてしまった。
団地入口(西芦寄り)には訪れる人々の為に一部公園化され、一面を観望出来る様になっています。

緑泉駅真向い北側には、一部職員住宅があった旭町は、昔日の面影はなく、附近住民の畑地、その他は平坦な野原に変貌してしまった。住む人々が明るく相互の交流、助けあい、人情が厚く、ぬくもりがあった幸町、住宅と囲りの垣根は総べて取り払われた。
かつてこの地は家庭菜園が盛んなところでもあり、庭は広くシャクナゲ、ボケ、バラ、フジ、ツツジ、シャクヤク、ブドウ、山吹き、スグリ(グミ)等が植え込まれ、草花の種類も多く美しく椅麗な景観地で住む人々を楽しませた。
然し今は人の背丈より大きい雑草、ささ竹、雑木等が生い茂り何処に住宅、道路があったのか判断がつかない状態にまで変り果て
てしまった。断腸の思いがしてならない。

昔は未開の地と先住人の農地であった地域に忽然として出現した美しく討画的に整備された芦別の三井職宅地域は、炭鉱の閉山影響により崩壌し一部再整備が行われましたが、かつての面影は殆ど今はありません。
然し一面から考えるとこの地に住み働いた者にとっては、歴史的には、今を語り、昔を語り生活し、そして受け継がれる貴重な何かがあった。
これこそ炭鉱の生活文化ではなかったろうか。

尚最後に参考迄に記しておかなければならないことは、美しかった環境作りに精を出し、立案し、尽力されたOB先輩は早川等氏(当時総務係員、係長)だけが生存者で他の多くの総務課、労務課の方々は総べて黄泉路へ旅立たれてしまった。
改めてその労に対し、敬意を表し度い。



<2013/10/20 14:44 芦別市石川ー>消しゴム
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