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頼城の思い出
− その2 −
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◎転校した時の苦労

○ 昭和40年5月29日(土)炭鉱を離職し函館に転校することになった。緑泉駅で同級生が見送りをしてくれた。芦別駅発16:30の普通列車(網走発函館行き)に乗る。この列車は夜明けに函館に着くので後に札幌から函館に行く時よく利用した。

○ 転校先が運動会で月曜日が代休だったため6月1日から五稜郭のそばの五稜中学へ通うことになった。この学校は開校5年目の学校で、制服が無く、男子は学生服、女子は私服で、しかも、髪型は自由で長髪、オールバックの生徒もいた。私的にみるとマンガの世界に飛び込んだようだった。丸坊主に継ぎの入った学生服、よれよれのカバン、どう見ても山猿がやってきたように思われたようだった。担任からも、奨学金の申請をしたところ、何を言っているんだと相手にしてもらえなかった。その後、指導要録が送られてきて、びっくりして謝られたが、時すでに遅く高校では奨学金がもらえなかった。

○学習進度はとても進んでいて、特に英語は6月というのに教科書の半分が終わっていた。私の方は、2年の終わりの方が3年になってもやっていた状況だった。授業がほとんど英語で進められるのでちんぷんかんぷんだった。みじめだった。この学校は函館でも進学校として有名だった。というのも、鉄道、教員住宅、市営住宅、道営住宅が学区域で函館では貧困層で、公立に入る必要のあることが責務だったからである。
高校に進んだらスタートが同じになると思って我慢した。毎朝、数学・社会のプリント、7時間授業(補習)が毎日で、都会の厳しさを痛感した。

○ 幸い級友に恵まれて随分助けられた。東京にいる現在もその時の同級生が6人もいて、連絡を取り合っている。給食のない学校とは知らず、初めの日は弁当も持っていかなかったので早退した。寒くなって、ストーブに火をつけることに関しては重宝がられた。

○ 炭鉱を出るとき、石炭や,薪を何トンも貨車に詰めた。父親は住宅の床下に超粘結炭を貯蔵していたのが、つらい生活の中で役に立った。
○ 芦別高校の修学旅行で函館で連絡船待ちをした時面会に行ったのと、大学に入ってすぐに頼城の仲町10丁目の石崎さんを訪問したのが交流の思い出である。
○ 姉が教わった但田正先生と函館で再会した。渡島の学校の先生だった。



<2013/10/10 17:35 bear>消しゴム
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