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頼城の思い出
− その1 −
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○ 私は東町6丁目4―4に昭和25年から40年まで住んでいた。家の畑のわきには井戸があった。小学校に入るころまでは、6丁目の中央に共同の水道が有りそこまで天秤棒でバケツをかついで水汲みに行っていた。やがて、各戸に水道が入り大変便利になった。
○ 家は山道路のすぐ下にあったので、大水害の時は4丁目の変電所わきからの沢から続く山道路わきの沢があふれ、床下が洪水になった。裏山の中腹の倒木の切り株が根こそぎ、道近くまで押し流されてきて驚いた。

○ 町内会(6丁目)も活発で、子供たちのためにいろいろな催しをしてくれた。朝のラジオ体操はもちろんのこと、上芦別の公園、野花南のダム、芦別のボートハウスにも行った。特に6年の時ボートハウスでボートを1人で漕いでいた時、弘法大師の座像を発見し、今も、手元に置いて大切にしている。4〜6丁目の町会では、夏休みに東湯のそばの広場でバックネットに大布を張ってスクリーンにし、幻燈大会をやった。学校から機械を借りて白黒の16ミリ映写もやったような気がする。

○ 冬はスキーが当たり前だったが、病院と小学校の間に、大きなため池みたいのが有り、そこを凍らせて、スケート場にしていた。そこは、雪スケートではなく、本格的なスケート靴で滑るところだった。スケート場の管理が大変だったのかいつの間にか止めてしまい、中学生になってからは、芦別の旭公園に滑りに行っていた。

○二坑会館の裏二階には、将棋・碁会所があって。定例会や大会が開催されていた。子供たちも参加することができた。将棋大会の少年の部で優勝してカップやメダルを記念にいただき、宝物にしていた。この二階の廊下を隔てた扉を開けると映画館の2階席に続いていた。休憩時間にそこから映画館の方に入って映画を見るのも楽しみの一つだった。

○ 東町の12丁目と幼稚園の間には、プールが有って、幼いころからよく泳ぎに行っていた。しかし、このプールは、沢からの水を引いて利用していたらしく、小学校高学年になったころ、集中豪雨で大量に土砂が流入し、使用できなくなった。そこで、自転車で、川岸まで泳ぎに行った。橋のすぐ上流が水泳場である。今から思うとどちらも7月あたりはまだ雪解け水のようなもので、水温が随分低かった記憶がある。川岸では大体焚火をしていて、あたりから枯れ枝を持ってくると、仲間にしてもらい、火にあたることができた。川岸は、いったん大雨になると、その後一週間ぐらいは、増水で入ることができない。したがって、ひと夏(7月15日〜8月20日)のうち、泳げるのは10日ぐらいであった。対岸の大きな岩から飛び込んで川の流れに乗って泳ぎ、膝近くのところで立ち上がるのである。その岩のすぐ下あたりのうっそうとした大木の下は淵になっており、渦を巻いて深くなっている。毎年必ず水死事故が起きたようである。

○ 父親の弁当を届けに、東湯のわきを通って線路を抜け、電車の充電車庫まで行った。鉱務所わきや、運搬車道を通って行くと近道になった。

○ 東湯の裏には、公衆電話が有り、長距離電話をかけることができた。交換手に相手の電話番号を伝えて、待っているとつながって話すことができた。話し終わると「終わりました」と交換手に伝えると、料金を知らせてくれる。現金で払った記憶はない。ピンク電話で長距離電話をかけるのと同じ要領だった。郵便局も同じだった記憶がある。

○東町8丁目には、労務所があって、月に一回印鑑と保険証か身分証明証かパスケースを持って給料をもらいに行った。
  
○ 東京オリンピックの時は中学生だった。その頃は学校で見るのは教育テレビだけだったが、朝7時登校でオリンピック中継を観た。午前授業で下校した。

○ 小さいころ、夜オーロラが見えていると父親に言われてその方角をさがしたが見えなかった。北海道でもオー-ロラが見えたのだろうか(1957年〜1960年頃)、今でも疑問に思っている。

○ 小学校5年生の時社会科見学で札幌・小樽に行った。北海道新聞社では、型紙のしおりをもらった。小樽の水族館でトドを初めて見た。デパートの屋上で昼食を食べていた時に子供連れのお母さんに「おむすびとサンドイッチを交換してください」と言われた。母親の作ってくれたおにぎりは、梅干し入りの塩にぎりだが、海苔が無くて笹でくるんで、笹団子が入れてあった籠に詰めてあったのが珍しかったようだ。サンドイッチよりも一緒にいただいたバナナの方がうれしかった。

○ 6年生の修学旅行は、洞爺湖(興風園)、登別(第一滝本館)、室蘭、千歳空港の予定だったが、二日目の夜から大雨になり、三日目、虎杖浜で立ち往生してしまい、空港には行かず帰ってきた。西小と一緒だと思う。昭和新山はできてまだいくらもたっていなかったのでかなり熱かった。第一滝本館は混浴で、プールのように広い浴場があった。

○ 中学1年の社会科見学は十勝岳、旭川だった。母親が付き添いで同行した。アイヌ部落を見学した。川村酋長に会った。

○ 中学2年3年の担任は社会の宮沼先生だった。東町5丁目に住んでいた。サッカーの教員の部で新潟国体に出場し、大会の後すぐに新潟地震に被災しその恐怖を話してもらった。宮沢先生は、国語の松永先生と結婚した。芦別の松永先生宅を訪問したことがある。確か宮沢先生の方がずっと年下だった。

○ 音楽は女の茂野先生だった。西芦中の校長先生の娘で、美人で素晴らしい声だったが怒ると怖かった。厳しい先生だった。教室の天井裏から屋根裏を進んで音楽室まで行った時足を踏み外して天井に大きな穴を開けた。授業中でなかったので知らないふりをした。



<2013/10/10 17:34 bear>消しゴム
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