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芦別見納め紀行
− 2005年6月 −
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昭和24年から10年間勤務した三井芦別は、私の若い日の心の故郷である。
閉山で今は見る影もなく、悲しくなるだけだから行ってみない方がよいという友人もいたが、この6月に見納め旅行をしてきた。

話はずっと前のことになるが、四街道の荘子直さんから「幾春別の詩」なるカセットテープを頂いていた。阿木耀子の詞、宇崎龍童の曲を三笠出身の
倉橋ルイ子が熱唱する。かっては幾春別爽炭層に立地して繁栄を極めたという炭鉱都市の今昔に想いをよせ、「北国の果ての今は廃墟の故郷さ」の歌詞で終わる。わが芦別の辿った経過とも思い合わせて、私には心にしみる。

札幌方面から車で芦別に行くのに、最近は道央自動車遣を三笠インターで下りて、岩見沢、幾春別線を東行し、タ張山地の桂沢湖で芦別から南下してきたタ張国道に合流してこれを北上すれぱ、芦別まで一本道である。

岩見沢、幾春別線の沿道は家も疎らで、道を尋ねるにも出会う人もない。
私は幾春別の詩の歌詞をつぶやきながら車窓の山河を眺めるぱかりであった。
桂沢湖から少し走った所で、三笠と芦別の市境をなす「三芦(さんろ)トンネル」をくぐる。これから芦別川の流域である。車はやがて「三段滝」、川岸、頼城、緑泉、中の丘、西芦別、下芦別へと進む。

三段滝は話には聞いていたが見るのは初めて、層雲峡の柱状節理が横倒しになった感じで、なかなかのものである。
川岸は、芦別二坑開発で立ち退いた頼城地区開拓民が新天地を求めて芦別川を湖って入植した所と聞いた。今も農地がひろがっている。
頼城は、自動車道からみるかぎり、炭鉱施設の跡形もなく、あっと言う間に通り過ぎる。

私の住んだ社宅は緑泉町25番地で、芦別川の瀬音が聞こえるくらいの所であった。
私はここでは車を下りて、せめて我が家のあったと思しき場所に立ってみたかったが、なにしろ辺り一面は灌木と雑草に覆われて、皆目見当がつかない。芦別川の崖上まで進むのが精一杯であった。

西芦別につく。
駐在所、郵便局、それと学校がほぼ昔の場所に建て替わっている以外、一面の空き地である。ひところ、再開発の試みも幾っかあったらしいが、昨今は、大消費地もしくは空港に接近した立地でなけれぱ、業種を問わず企業化が難しいと言う。
芦別は夕張国道を旭川まで延長して、旭川空港圏入りを志向しているとも聞いた。

昔は偉容を誇った事務所も、どういうわけか、ほんの一部だけ取り壊されずに残っていて、一層哀れであった。
私が8年間暮らした合宿も、その側にあったクラブも今では痕跡も探し得ない。クラプのアプローチにあった「うらじろななかまど」の亭々とした並木も伐採されたのか今は見当たらない。
昔と変わらないのは芦別川の不断の流れだけであった。

芦別の宿は芦別温泉の「スターライトホテル」にした。聞けぱ油谷炭鉱の跡に沸き出したとか。
温泉、レストラン、宿泊施設や体育館などが整い、芦別随一の観光施設と見た。全日本女子バレーの夏季合宿地にもなっていると言う。

私は経理で一坑と黄金坑を担当していたので、黄金にもいってみた。ところがこれまた辺りは殆ど原野になってしまって、どうにもならない。
仕方なく少し北上して「新城峠」に立ってみた。これを越えると旭川市になる。峠の展望台から遠望する芦別岳の雄姿に感動した。深田久弥さんが「日本百名山」に入れたかったといわれただけのことはある。

この近くには「夫婦滝」の名勝がある。ここにはほろ苦い思い出がある。
合宿の仲間と一緒に会社の若い娘たちを連れてこの滝の見物にでかけて、全員が草漆(くさうるし)にかぶれた。足首の辺りはまだよいとして、女子はしゃがみしょんの関係で微妙なところが。

時間があったので芦別の町を散策した。私が結婚式をあげた蘆別神社は健在であったが、商店街は灯が消えたようになっている。昔の芦別で老舗といわれていた商店が殆ど店を閉じている。経済寿命を失ったのは石炭資本だけではない。
明治の中頃、原始林の御料地であったこの地に、富山、石川から集団入植し、世代を重ねて、大正4年に始まる石炭産業と共に資産形成の途にあった個人資本も、道半ぱにして石炭と運命を共にしたのである。

芦別滞在最後の日に、独歩の「空知川の岸辺」の石碑を見に行った。
歌志内の入り口の岸辺に石碑があり、「国木田独歩曾遊の地」の文字と、「空知川の岸辺」の書き出しの部分が彫ってあった。



<2012/10/20 22:56 糸山剛二>消しゴム
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